越川雅美さん 国境のないアート・パフォーマーとして、異文化への理解と尊敬の念を 人々に伝えていきたい

中国で生まれ、6歳で日本の長野市へ移住、その後18歳で渡米と3ヶ国で過ごした経験を持つアート・パフォーマー。日本の居酒屋店長から始まり、アメリカで大学修士号を修得。現在、アメリカのフロリダ州オーランドにて、妻であり母、そしてアーティストとして活動される雅美さんは、今までの人生を通して学んだ事を彼女独自のアートとして取り入れ表現されています。前衛的なパフォーマンスやコメディーであったりと、不思議で独特な世界観を持つ雅美さんのアート。実際どのような「思い」をもって作品を創り出しているのか伺ってみました。


最近のアート・パフォーマンスについて教えていただけますか?

ちょうど先日誕生日だったので、アメリカ風の誕生日のお祝いで歳の数プラス1、翌年分を含んだ数だけお尻を叩いてもらうって言うイベントをやってみました。カメラマンを付けて、偽のマイクをもってインタビューしながら40人ひとりひとりにお尻を叩いてもらいました。イベント会場で「誕生日は何をするんですか?」と質問したり、名刺交換をしたりして、山さんというお店とGuest Houseと言うバーにも立ち寄ってみました。みんな快く応じてくれましたよ。最初は、拒否した人も、最終的には私がアート・パフォーマーだと分かったら、逆にやりたい、やりたいって叩いてくれました。これもそうですが、アート・パフォーマー、プラスコメディアンって言うのでしょうか?日本のコメディも少し伝えられたらと思っています。アメリカのコメディは、スタンド・アップ・コメディ(=話をしているだけ)で、あまりフィジカル(体を使わない)じゃないですよね。日本のコメディは、体を使っているじゃないですか?吉本みたいな殴ったりとか、そういうのが好きで、毎日YouTubeとかでも日本のエンターテイメントを見ています。今はまっているのがTBSのモニタリング、ドッキリ系ですね。


【アートパフォマーとして現在に至るまでの背景-羽ばたく女性の象徴-】

アメリカに来られたきっかけは何ですか?

高校を出てからは、大学に行く気もなく日本で八犬伝と言う焼き鳥専門居酒屋の店長に18歳でなり、2~3年働いていました。高校の時からアルバイトをしていて、その時に接客が天性だと言われ、ちょっとやって見ようかなとそのままズルズルと、居酒屋の仕事をしていました。その後、お客さんでアメリカに友達がいると言う方と友達になり、「アメリカに行ってみたい!」と話をしていたら、「あーいいよ」と話が直ぐに進み、初めはホームステイでフロリダ州のクリアウォーター市に2ヶ月間滞在しました。長野市とクリアウォーター市は姉妹都市なんですよ。ホストファミリーのお母さんが、スパニッシュ系の子供達に英語を教える先生だったので、毎日一緒に学校に行って、一緒に子供のクラスに入って英語を学んでいました。始めは、全く英語もできず、辛かったです。ここで、勉強しなくてはいけないと思い、一旦日本に帰って学生ビザを取得して、直ぐアメリカに戻ってきました。


アートに目覚めたきっかけはなんですか?

小学校5~6年生くらいの時に友達から漫画を勧められて、読み始めたらすごく面白くて、そこから中学までずっと絵をかいてました。絵が大好きで、漫画をコピーしたり、小説を漫画にしてみたりと、とにかく絵を描くのが好きでした。授業も聞かず、絵ばかりかいていました。絵は描いていたものの、好きなだけで特に日本では今のようにアートに目覚めてはいませんでした。始めは、アートが勉強したくてアメリカに来たわけではなく、英語が勉強したくてアメリカに来たんですね。大学でアートを専攻したきっかけは、一番簡単かなと単純な考えでしたが、そこからアートに獲りつかれたかのように目覚めてしまいました。とにかく絵を描くのが楽しくて仕方なかったですね。パフォーマンスだけでなく、絵は日常的に描いていました。


雅美さんのアート・パフォーマンスにはご自身の生い立ちと関連があるようですが、詳しくお伺いしてもよろしいですか?

長くなるのですが、祖母が中国の残留孤児(祖母のバイオの本が日本で出版されています)でした。終戦後、中国で曽祖母は子供を抱え他の10名位と逃げ続け、殺されたり自殺したりとどんどん人数が減っていってしまったそうです。最後、道端に倒れていたら、中国には自転車のタクシーっていうのがあるのですが、そのお兄さんが通りがかりに曽祖母と目が合ったらしいです。一旦このお兄さんは通り過ぎたらしいのですが、戻ってきて助けてくれたと言っていました。このお兄さんは、貯金を全部使い、婚約していたのにその婚約資金も使って助けてくれたらしく、それが理由でこのお兄さんは、婚約を破棄されてしまったそうです。後にこのお兄さんは、私の祖父にあたる人となります。

曽祖母は、何も言わずに息子だけを連れて日本に帰ってしまったようです。情勢が危なかったので祖母を残したのか、婚約破棄をさせてしまったので、祖母を残したのかは明確ではありません。その時祖母は17歳でした。お互いに、絶対に嫌だと言っていたそうですが、結局このお兄さんと結婚し、子供を5人授かりました。私の母は、2番目の子供です。後に祖父は電車の事故で片足を失くし、そこからすごく貧しい生活になったそうです。

私の母も父と中国で出会って結婚し、私が6歳になるまで中国で暮らしていました。私が生まれたのは、1980年で、中国では当時一人っ子政策が導入されていたのですが、私は2番目の娘で生んではいけない子だったんですね。姉とは同じ敷地に住んでいましたが、姉は、母屋で祖父母と一緒に住んでいて、私は、母屋から離れたところで暮らしていました。なので、小さい頃は、なんで私と姉は、離れて暮らしているのかなと思っていました。家に2人も子供がいてはいけないし、差別されるので、別々にされていたようです。いつも離ればなれで、お姉ちゃんってイメージはないですね。近所のお姉さんって感じでしょうか?お姉ちゃんって呼んだことがなく、名前で呼んでいました。

当時中国では、2人の子供を持った人には、罰金が課せられ、とても差別されたそうです。これに伴い、父は仕事も首にされてしまいました。それがきっかけで日本に移住することに決めたようです。もちろん、両親は、中国で育ったので、日本語ができないながらも日本に入ったようですよ。船の底に沢山の人がいて、「日本人になにか悪いことを言われたら、馬鹿って言い返すのよ、覚えておいてね」って教えてもらったのを覚えています。結構、船の中で隠れているイメージはなく、みんな和気あいあいとした感じでした。それなりに大きい船でしたよ。詳細は、分かりませんが、そこだけは鮮明に記憶に残っています。

祖母は、中国で結婚していますが、32年位経ってから、日本に帰国しているので、私たちが日本に行った時には、既に祖母が日本に滞在していました。祖母を頼って行った感じになりますね。住んでいたところも団地だったのですが、祖母の住居の1つ上の階とかでした。そして、日本に長く滞在していると国籍が取れます。祖母が助けてくれたのですが、そんなに簡単でもなく十数年待ってやっと取れました。覚えているのは、みんなやっと取れたと喜んでいました。国籍上いつも中国人か日本人か迷っていたことは、小さい頃から特になく、中国からきた中国人と人には言っていました。ただ、成人してからは日本人として生きていこうと決めました。

母の日本語は、通用すればいいかなレベルで、父は、中国人なのに日本人並みにベラベラです。母は、清掃工場で働いていました。色んなものを拾ってきていましたよ。「これ、ダイアモンドだよ~」とか言って、日本での生活を楽しく過ごしていました。母は、とにかく働き者で、男並みの溶接もしていました。父は、自営業で家の外装塗装屋をしていました。母は、もうすぐ70歳位になると思いますが、今も老人ホームの送迎をやっています。それと、キノコ採りが趣味で今でもとてもバイタリティがあります。

<FuzzyMemory By Masami Koshikawa>


雅美さんは独特な世界観のあるアートを多く創り出していますが、それぞれの作品の背景や意味合い等教えていただけますか?

最初真っ白な繭で現れて、道端で人に蝶をつけてくださいとお願いして、全身金の折り紙の蝶を付けてもらうパフォーマンスが、バタフライ・ウーマンです。これは、母とのコラボレーションのアートです。実は、作っている時は、何も考えていないのですが、バタフライ・ウーマンに込められた意味は、女性とトランスフォーメーションです。

バタフライ・ウーマンの蝶は、母が作って日本から送ってきてくれたものなんです。母が送ってくる折り紙は、単に鶴とか蝶だけでなく、折り紙で作った鶴を重ねてドラえもんとかピカチュを作ったりと、単純なものから複雑なものまで作るんです。私にと言うより、私の息子にですね。当時、うちの息子は、1~2歳だったので喜んでいました。でも、これを何にしよう?日常でこれを使って何ができるんだろうって考えたんです。これが機で、折り紙を自分のパフォーマンスに使う事を思いつき、今では逆に母に蝶を8000個お願いなどと依頼するようになりました。母は、元々手先が器用なのだと思います。日本の折り紙の折り方の蝶ではなくて中国の折り紙の折り方なんです。母が中国の学校で学んだ折り方らしいです。

なんで、蝶なんなんだろう?って自分でも思ったんですね。蝶なんて平凡じゃないですか。でも、自分が生まれるべきでない2番目の娘として育ち、そして息子の父親からDV(家庭内暴力)を受け、家を出て息子を守り育ててきました。こんな背景もあって、これからも女性を主としたアート、女性の象徴や強い女性を表現していいきたいと考えています。羽ばたく女性の象徴とでも言うのでしょうか?祖母も、母も中国で大変な思いをしながらも魅力的で強くきれいに羽ばたいて生きてきていますからね。蝶って世界共通じゃないですか?誰もが蝶を見て、あー蝶々だって言える、シンボルが分かるって言うのでしょうか?こういった変わっていることをしているから、ユニバーサルが逆に味方してくれていると考えています。

<バタフライ ウーマン BY Koshikawa Masami>


【ステレオタイプに訴えかける作品を通して差別に対した反発精神を表現】

ホームレス・ブライドと言うキャラクターのパフォーマンスについても教えていただけますか?

グリーンカードの為に結婚してください(Merry me!)って言うアジア人女性のホームレスです。このパフォーマンスでもベールは中国、アメリカの真っ白なウェディングドレスに、日本の芸者の真っ白な顔塗りと3ヶ国の文化を取り入れてみました。

このパフォーマンスを作ったきっかけは、前に付き合っていた彼が、「俺と結婚したいって?何?グリーンカードが目当てじゃないの?」みたいなことを冗談ぽくですが言われて、凄く腹立たしい気分にさせられた事がありました。こう言ったステレオタイプに訴えかける作品が作れないかなと思って出来たのがこの作品です。アジア人の女性をみたら、グリーンカード目当てだと思うの?みたいな、差別に対した反発精神を表しています。

ニューヨークでは、多くのパフォーマンス・アーティストがいるので、行き交う人々もきっと慣れているのでしょうね。写真撮ってくださいとお願いしても、気さくにいいですよと了解してくれる人が殆どでした。牧師さんの格好をしたポペットを持って、結婚してくださいとお願いしながらあちらこちらで50枚以上の写真を撮らせていただきました。ニューヨークの人々は、みんな優しかったです。オーランドでは、かなり引かれました。裁判所の前でもやったんですが、警察が来てしまって、ここでは撮影しないでくださいと言われました。他にも、バス・プロ・ショップの前でもやったんですが、オーストラリア観光客の男性陣10名位に囲まれました。もちろん、大学のプロジェクト・パフォーマンスをしていますと言う表示は、出してあったので大事にはなりませんでしたが、その時はさすがに怖かったです。また、中には、「なんで自分をそんなに卑下するの?」と本気でお説教されたこともあります。それが逆に面白かったですが。

<MARRY ME BY Koshikawa Masami>


【みんな同じ、楽しく生きていこうよ】

ポテトガールはどんなパフォーマンスですか?

友達と街に出て、色々なゲームをして競争するんです。エレベータで皮むき対決をして、勝ったり負けたりするわけですよ。平凡な生活をする中で、みんな競争心を持っています。あなたもポテトだし、私もポテトで、結局、みんなポテトで変わらないんだよ。だったら人生楽しくやろうよって笑わせながら、大切な事を伝えたいって言うのが、このパフォーマンスです。伝わらなかったとしても、やっていて私は楽しかったです。もちろん、後程ウェブサイトに意図するメッセージをお伝えしています。これが、誰かの何かのきっかけや手助けになればと思っています。


<POTATO GIRLS BY Koshikawa Masami and Juliet DiIenno>


【壊れて始めて気付くことの大切さ】

障子ウーマンはどのような意味があるのですか?

障子を立てて、その中で私は何かをスクロール状に書いています。1つ1つが文字のように見えるのですが、よく見ると実は花なのです。それで、観客が自分で指に唾を付けて障子に穴を空けると、それが見られると言うパフォーマンスです。

小さい頃、障子に穴を空けちゃいけないよって躾られてきましたよね。でも、逆にかり立てられますよね。そして、壊すことによって、壊したものは大切なものだったという自覚が湧きますよね?これは、日本で一時期、流行ったのですが、ヒビが入っているものが美しいなど具体アートと呼ばれるものです。失ってからその人の大切さに気が付くとか、人間関係でも言える事かもしれません。壊れて始めて気づくことの大切さ。その場では何をしているのか本当の意味合いが分からない、それがパフォーマンス・アートの良さなんですよ。

どんな意味合いがあるのか最初から言ってしまったら、つまらなくなってしまいます。謎解きアートのようですが、観客にチャレンジしているのですね。だから、観客側からすれば、パフォーマンス・アートは、分からないと言われる事が多いのでしょね。私の場合は、アートの中にコメディがあったり、社会的風習もあったりで比較的わかりやすいと思います。私の信念を全部反映しているとは思っていますが、見る側にも合う、合わないがあると思います。信念が伝わればと思っています。

【障子ウーマン詳細】


【アートは人の価値観によって評価されるもの】

他にも絵も描かれていらっしゃいますが、価値のある絵とはどういうものですか?

基本は、他の人が見て全財産を叩いても欲しい絵であれば、それはその人には価値があるものになりますよね。昨年の12月にマイアミのアート・イベントで作品を展示させていただいたのですが、友達に助言されて高めの値段で出しても売れました。もちろん、場所とイベントにもよるのでしょうが、その時は、髪の毛で作るアートを出展してみました。このアートがそうですが、ペンは一切使わず全部髪の毛で完成させたものです。変わったアートとして白髪で作った蜘蛛なども出展しました。

<自身の髪の毛を使用し描かれた作品「Utamaro」BY Koshikawa Masami>


【自分を尊敬できるから、他人も尊敬できる】

アメリカに来て15年になるようですが、これからもどのように生きていこうという目標はありますか?

アメリカ滞在は楽しいですが、両親が心配なので、日本に帰りたいとは思います。アート活動については、これだっていうイベントがあれば、オーランドだけでなく他州や日本でも、もちろんやっていきたいです。そして、日本とアメリカの架け橋が出来たらと思います。例えば、オーランドのパフォーマーを日本に連れて行き、他国の文化を楽しんでもらうのと同時に、自国に感謝すると言う考えです。交換展覧会などをやってみたいですね。それによって、お互いの国に対する環境や文化の違いの理解、それに対する尊敬の意などを伝えていきたいです。自分を尊敬できるから、他人も尊敬できると思っています。


【後悔のないように色々なものを見て経験を積んで、それを社会に出していってもらいたい】

最後に、日本で雅美さんのようにアート活動をしていきたいと考えている方々にお伝えしたい事はありますか?

やりたいと思った時に、行動を起こせば結構何でも簡単にできてしまうものです。最初は、のりでやったとしても、そこで経験を積んで、後悔のないように色々なものを見てもらいたいって言うのもありますし、自分のために、そして家族のために経験を積んで、それを社会に出していっていただきたいですね。戦争や争い事は良くないですから、自分、自分と言うのを少しやめて、地球上には色々な人がいるので分かり合えないと困りますよね。それぞれみんな育ちが違いますから、それで差別するのは一番良くないことだと思います。どこにでも差別はありますが、私はアート活動を通してそのことを表現していきたいですし、そういう人が増えればと思います。自分なりの生き甲斐が見つかれば、それはそれで幸せでしょうし、生きていて良かったと思えます。例えば、私が今でも日本に住んでいたら、今のようにアートに目覚める事もなかったわけですし、生き甲斐がなかったですからね。頑張れば成果が見られるアメリカで頑張ってみたかった、そこで自分の国のありがたさが分かって、今では自分の過去や家族に感謝していると言えます。これは、アメリカに来ていなければ分からなかった事かもしれないですからね。


<取材後記:吉澤優子(Yuko Yoshizawa>

周囲をも楽しくさせる笑い声が印象的でした。文化の違いと彼女の祖母や母の影響、そして自らの辛い経験を活かし、たくましい女性をアート表現に取り入れ、感動、笑い、そして共感させられました。また、髪の毛だけを使って描いたアートなど、奇抜で素晴らしい発想の持ち主で、「批判は、差別とは違いますよね。逆に気に入られれば、凄いことで面白いですよ。」と前向きで明るく素敵な女性でした。


<こしかわ・まさみ>

日本からアメリカに移民し、学士号、修士号を修得。現在フロリダ州のオーランド市にて多文化的背景、社会的排除と女性をテーマとしたアート・パフォーマーとして活躍中。絵画、ミックスメディア、彫刻、ビデオパフォーマンス、インスタレーションなどのさまざまな媒体で母親の折り紙を利用して母親との独自のコラボレーションを実現しました。最近の作品、「バタフライ・ウーマン」は、西洋文化に溶け込んだアーティスト、母親、そして日本人としての姿を変えた表現です。

【Masami Koshikawa 公式HP】
https://www.masamikoshikawa.com/





















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