徳永英彰さん 謙虚な姿勢で<音楽>と向き合う心と<好き>を貫く力

その一瞬を愛おしみながら、魂を絞り出すように、心に響く音色と旋律を奏でるジャズギタリスト徳永英彰さん。 大学を一回生の夏に中退しNYへ単身渡米。その後、ジャコパストリアスとの交流や、NYでのストリートミュージシャンの経験等を経て、アメリカダウンビート誌主催コンテストで最優秀ソロイスト賞を受賞。アメリカでメジャーデビューを果たす。以来、ジャズギタリストとして活躍し続けてこられました。 音楽に対する謙虚な姿勢、どんなことがあっても折れない心等・・・今まで感じられたこと、経験された事等について伺いました。 音楽家のみならず、全ての人にとって、人生を謳歌する為のヒントとなればと思います。

ギターをはじめたきっかけはなんだったのでしょうか?

 もともと家が音楽一家と言う事が一番の理由だったと 思います。母(ピアノ・声楽)が英才教育で、兄 (ヴァイオリン)、姉(マリンバ)に先生をつけて習 わせていました。私が末っ子で兄姉とは10年近く遅 れて産まれたのですが、父がうちの母に「こいつには音 楽はさせるな」と助言したそうです。おそらく始める きっかけになったのはクラシックを英才教育でやらせ て貰えなかったからなのかもしれません。なのでクラシックはこちらの大学に入るまで、全くと言って良いほど 触れていない状態でした。


 大学を中退され単身渡米されたとのことですが、 そのきっかけはなんだったのでしょうか? そして何故その後アメリカだったのでしょうか?

NY行きはもう自分の中では日本の大学に入ろうがなかろうが決定していた事なので1年生の夏休みだったのですが、アメリカの大学の秋入学に合わせて退学しました。もっと融通の効くやり方もあったと思うのですが、かなり強引に決意してしまったかな?と今になっては思っています。

恐らくその頃は何も考えていなかったのでアメリカそれもNYしか駄目みたいな感じがなぜ自分の中に宿っていたのか不思議です。このインタビューで聞かれて初めて変な若者だったんだな?と気付きました。高校時代にお世話になった関西のドラマーの豊田晃さん(2017年に他界)からNYに行くに当たり2人のアーチストを紹介して頂いたのです。まず豊田さんと一緒にレコーディングされていたJoe Lavanoというサックス奏者。その頃NYUで教えていました。なのでNYUに通う事にしたんです。それと今でもNYで活躍する日本人ドラマータロー岡本さんです。芸術家の岡本太郎からとった面白いステージネームなんですが、NY老舗のVillage Vanguard等にも出演されている日本が誇るドラマーです。当時私は19歳だったので、アメリカでは未成年扱いでした。なのでタローさんが保護者になってくれました。おそらくこういう受け皿があって渡米やNY在留が成立できたと思うのですが、上記の3人の方々にまったく恩返しできてなく申し訳なく思っています。


アメリカで最初どのような活動をされたのでしょうか?

日本の大学を1年生で中退して来たので、なんとか他 の大学に繋げてという思いで、先述の通り、まずNew York University (NYU)というところへ行きました。そこで語学学校も 行ったのですが、週一回ジョー・ラヴァーノという人 のジャズ科のアンサンブルの授業を取らせてもらいま した。その先生はここ20年来凄く有名になった方な のでその時代にその授業が取れていた事は本当に有意 義な事でした。時を同じくして大学在学中にマイケル ブレッカーが所有するセヴェンス・アヴェニュー・サ ウスというクラブにバスボーイ(食器を片付け)とし て雇ってもらいました。マイケルブレッカー、ジャ コ・パストリアスの他にも多くの素晴らしいミュージ シャンが出演しているクラブで、すごく安い賃金で働 かせられていたと思うのですが、毎日素晴らしいライブ が見れるという魅力がありました。週末にお店に鍵を かけて常連客30人ぐらいだけが残り、闇のバーをやり始めたとき、ソロギターをやらされました。これが NYで貰った最初の音楽の仕事でした。ジャコやマイケ ルの後のステージで出来た事は今でも誇りに思ってい ます。

その後このクラブ(1986年の正月)に潰れてしま うのですが、それからストリート・ミュージシャンで 生計を立て始めました。始めはサックスの人とのDuet でやっていたのですが、そのうちSubway(地下鉄)で ちゃんとエンターテイメントの免許を取って活動しているMUNY/ミューニという団体に所属しているバンド に誘われて、生計が立てれるようになりました。


アーティスト活動の中で一番辛かったことはなんだったのでしょうか?

ブッキング(予約)が重なって入った時には、基本的にできな いお仕事の方に、自分より経験を積んでいる人や知名 度が上の人を送るようにしているのですが、次の仕事 の機会にその人達に自分のスポットを奪われてしまう 事もあるんです。自分も同じような事をやって来て今 があると思っているので自業自得なのですが。それに その方法でしか生き残っていけない世界かも知れませんので、辛いなんて言ってられないんですが、やっぱりそれをやられた時点では本当に辛い事です。

<1988年頃。NYのハーレムのLa Famiel クラブでの演奏>


アーティスト活動を通して一番感動した出来事はなんでしょうか?

セヴェンス・アヴェニュー・サウスでソロギターを弾 いていたとき、メインのセットで出演していたベーシストのジャコ・パストリアスが「俺の曲で出来る曲は あるか?」って再度ステージにあがって来ました。 "Three Views of a Secret"(彼の曲)っていったら一緒に やってくれました。ちゃんと今でも録音を持っています。奇跡的にうまく弾けました。その日からジャコは 凄く優しく接してくれるようになりました。

当時私は19歳だったので、テクニックや難解なコー ドを重視していた演奏だったと思います。後日ジャコ が得意とする、チャーリー・パーカーの"Donna Lee"を猛 スピードでやろうとした日もあったのですが、その時 もちゃっかりジャコがいて、緊張してあまりよく出来 なかったんです。その時ジャコが楽屋に呼んでくれ て、変な質問をしてくるんです? 「お前ビートルズ 知ってるか? ジミヘンドリクス知ってるか?、、。 知っていたら、ちょっと弾いてみろ。」って、その時 ちゃんとジャズのアレンジが施された ビートルズの "Here There and Everywhere"という曲をやったら、ジャコは 「おう、それは良い曲だけど、俺の言っているビート ルズはこのRock'n Rollのだよ。」っていって私のギター を取り上げて歌い始めました。ジャコのガールフレン ドのテリーという女性が楽屋に閉じこもっている私た ちに何度もノックして、「もう夜は明けてるわ よー!」ってジャコを呼びにくるんですが、ジャコは まったく気にせずに私にアドバイスをし続けてくれた んです。テリーが本当に怒って楽屋に入って来た時に ジャコが「分かった、最後にもう1曲だけで帰るから。」って言って、 私がうまく弾けなかったDonna Lee を私のギターで弾いていって去っていってくれたのです。
それが一番感動する出来事でした。


ギターをやめたいと思った事はありますか?

私にとってギターを弾く事は睡眠や食事や入浴とかいったような生活の一部なので辞めるって言うのは肉 体的に無理にならない限り考えにくいです。どんな生 活のスタイルになっても練習時間の確保やライブの仕 事を優先すると言う事での困難はあるのですが、それ が辞めると言う事につながった事は一度も有りません し、もし今後サラリーマンや公務員になれるチャンス があったとしても、大金持ちまたは本当に貧困な状態 になっても、辞めずに平行して続けていく事でしょ う。


尊敬するアーティストと、その理由をお伺いできればと思います。

(感動した時の続きなんですが)セヴェンス・アヴェ ニュー・サウスが潰れてあのジャコ・パストリアスが ホームレスになってしまいました。NYのビレッジにあ るバスケットボール・コートでよく見かけるように なったのです。私が初めてアメリカ人の女性とデート した日(今の奥さんと付き合い始める前)、偶然近く の場所を通りかかってしまってジャコをちょっと離れ た所から見つけてしまったのです。彼女に「信じられ ないかも知れないけど、あそこにいるホームレスの人 は世界一のベースプレーヤーなんだよ。」といった ら、彼女が「あなたの知っている人なの?」って聞い てくるんです。「知っているよ。」と答えると、「じゃー挨拶に行こう!」って言い出すんです。

恐る恐る近づいていくと、ジャコの方が私を見つけて 「おー今からギターを持って来るから、ここで(道)で弾け」って言うんです。彼はホームレスだったので、どっからギターを持って来るのかなーと思っていまし た。ジャコはそこに私と彼女と何人かの見慣れない 人々をそこに残して去っていったのです。後に分かっ たのですが、その見慣れない人々はジャコの親戚の人 でした。5分待ってもジャコは帰ってこなかったの で、私は彼女に「サブウェイまで送っていくよ。」と いったら、彼女も「ジャコがギター持って来るって 言ったでしょ?」って去ろうとしないんです。そうこ うしているうちに本当にギターをもって戻って来たの です。

もちろん第一声は"Donna Lee"やってみろだったんです が、、。次にエロル・ガーナという人が書いた有名 な"Misty"というバラードがあってそれを弾いてくれっ て言われたんです。もちろんそのリクエストにお答え して弾くと、ジャコが私に背を向けて上を向いていた のを覚えています。なんかその場の雰囲気がおかし かったので、「ちょっと彼女をサブウェイまで送って 来る。10分でもどるから。」といい残してその場を 去りました。

この日は偶然にも親族がジャコを宥めて精神病院に行 く強攻策がとられ、救急隊と警官隊が来た日でした。 10分後にその場に戻ると、警官隊がジャコを取り囲 み手錠がはめられていたのです。私は何かの勘違いで逮捕されたと 思い、慌てふためいたのですが、収容されていく方向 がパトカーでなく救急車だったので安心しました。

それから1年位たってジャコは35歳の若さでフロリ ダ州のフォート・ローダデールという町で他界されま した。その時にバスと飛行機を乗り継いでフォート・ ローダデールの彼のお葬式に参列したのですが、親族 の入場の時になんとなく見覚えのある女性が私に微笑 みかけてくれました。その方はジャコの未亡人のイン グリッドさんでした。後日プロデューサーの友人から 電話があり、道で弾いたMistyの話を詳しく知ってい て、そんな事があったのかって聞いてくるんです。バ スケットボールコートで何人かの見慣れない人々の中にイ ングリッド夫人がいたのでした。

あの時にジャコが私に背を向けて上を向いていた行動 が、感極まって涙を流した行動だったという事をしり ました。おそらく精神病院に連行される強攻策を彼が 知っていたのかも知れませんが、私が尊敬するミュー ジシャンが多い中で、私のギターに涙してくれたのは 現在の所ジャコだけのようです。


音楽活動を通じて何か伝えたい事等はありますか?

自分が音楽を通して何かを伝えるような域にたどり着いていませんのでまず答えようがないですね。たどり着けるように日々楽しく練習に励んでいます。もし伝えたい主義や主張が、政治的なものだったり人生観だったりすると、そう言うものってかなり変わって行ってしまうので、今の所伝えたい事は見当たらないという答えにしておきます。リスナーの方々には特に伝えたいというものはないのですが、自分の作曲した作品の中で人の名前がついたものがあります。それらの多くは他界してしまった人の名前がついています。手っ取り早く言うとそれらの人々へのトリビュート曲です。その人達が天国で聞いて喜んで頂けたらという願いがこもっています。これらの人達に自分の作品を通して感謝の言葉を伝えて行きたいですし、これからもこのトリビュート作品集は増えて行く傾向にあります。


音楽家を目指す人々へ何かメッセージを

この「音楽家を目指す人々」にはおそらく自分も含まれているような気がします。いつも自分には、「自分の才能が最大限に発揮できる環境を整えろ」と言い聞かせていますが現実難しいですね。他人、特に若い世代の音楽家にも偉そうに同じような事を言っていますが、私は心も体も小さな人間なので、もしちゃんと環境を整えたアーチストが本当に私の目の前に現れたらかなり嫉妬します。努力をしてきてない私でもこういう嫉妬心を抱くという事は、才能があって凄く努力をしている次の世代の音楽家の人々なら、その方々と同世代又はその次の世代に同じような成功者が現れたら、なおさら嫉妬するのではないでしょうか?なので努力というものは禁物だと思うのです。練習もライブもレコーディングも努力せずに楽しく取り組んでいったら未来は結構明るいと思います。嫉妬ぐらいならまだいいですが、努力ばかりして現実がこんなものかと知った時のギャップで楽器をやめてしまうくらいなら、努力をせずに細々と長くそして楽しく音楽活動を続けて欲しいです。 


最後に、これからの目標等ありましたらお聞かせください。

上記のようにジャコが私に与えた影響っていうのは、 多大な物でした。今回はジャコの話で終わってしまいそうですが、5年に一人位の割合でこういう人に出会 います。その出会いを大切にして、機会があればその人と録音させてもらって作品として残していけたらと 思っています。


徳永英彰

ギターリスト・大阪府出身・ロスアンゼル ス在住 
カルフォルニア芸術院(カルアーツ)大学院卒  1985年に関西学院大学を1回生の夏に中退し単身渡米。NYにあるマイケルブレッカーが所有するセヴェンス・アヴェニュー・サウスにてバスボーイ として働く。週末のアフターアワーズにソロギターを 弾く機会が与えられ、同クラブに出演していたジャ コ・パストリアス等のアーチストの後座をまかされ る。1990年の結婚を機にLAに移住。カル フォルニア芸術院 チャーリー・ミンガス奨学金を得 て特待生で入学。在学中1995年のダンビート誌主 催のコンテスト受賞を機にミディ・レコードより(ユ ニバーサル配給で)デビュー。デビュー後音楽活動の傍ら、音楽と数学のカルフォルニア州教員免許を取得し、インドや中国の国際学校で両科目を教える。現在ジャズギタリストとして活動する傍ら、ロサンゼルス公立中学校にて教鞭を執る。

Hideaki Tokunaga FB

https://www.facebook.com/hideaki.tokunaga





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